『はじまりのうた』

■映画の原題は“begin again”、「また始めよう」あるいは「何度でもやりなおそう」。

■人生に迷う男と女が、音楽をきっかけに出会い、レコーディングを行う中で心を通じ合わせていく?という設定は、ジョン・カーニー監督の前作『once(2007)』と全く同じだけど、前作よりも明るく賑やかタッチで“音楽のちから”を描く一品。

■失恋で失意の底にいるシンガーソングライター(キーラ・ナイトレイ)と、かつてはヒットを飛ばしたものの時代の流れに迎合できず、会社や家族とも決裂した音楽プロデューサー(マーク・ラファロ)の出会い。
この二人の出会いの描き方がまず上手い。
映画の冒頭、失意のナイトレイが友人に無理やりライブバーのステージに上げられ、乗り気でないままギター一本で弾き語りをする。
客の反応も疎らな中、偶然客席にいたラファロだけが、彼女の唄う姿に対して表情を輝かせている。
ここで映画の時系列は逆順となり、そこに至るまでのラファロの事情にシフトする。
様々なトラブルや軋轢が積み重なり追い込まれたラファロ。
彼が迷い込んだライブバーで耳に入ったナイトレイの唄。
時代遅れのスタイルの唄がその時の彼の耳には鮮やかに響き、誰も演奏していないスデージ上の楽器は音を奏で始め、彼の耳にはアレンジの重なりがはっきりと聴こえてくる。
マイナス同士の心が乗じ合うことでプラスの何かが生まれ、そこから始まる鮮やかなドラマ。

…正直、この場面に至るまではラファロに対して感情移入もしにくく少々退屈だったのが、ナイトレイの凛とした眼差しと彼女の音楽により物語にぐいぐいと引っ張っられていく。


■この映画は、“音楽を語る手段とした映画”であると同時に、“音楽そのものについて語る映画”でもある。
音楽がただの風景に色彩を与えてくれること。
音楽を共有する楽しみ*1が、時代とともに個人の楽しみに変化していったこと。
互いの音を重ねていくことで人の心が重なっていくこと。
そして音楽はいつか作り手のもとを離れていくこと。
そういった喜びや寂しさを、説明くさい言葉よりも音楽そのものの存在で伝えてくる映画。
深い哲学があるわけではないが、悪い人間も不幸になる人間も登場しない。
とにかく音楽が流れているあいだ中、こちらの表情と涙腺は緩みっばなしだった。

*1:音楽とは非常にパーソナルなものだ。例えば、年代が違っていても映画の好みは共通化/共有化しやすいのに、音楽の好みにおいて年代の差は大きい。その理由はなんだろうか? 思うに、音楽そのものが、その個人の生活に非常に密着しているからだ。映画を観る経験とは、映画館に足を踏み入れることでいちど日常と切り離され、年代の違う人間であっても「ただの観客」として共通体験を持つことができるが、音楽はあくまで日常の中にある。例えば自分の例/世代であれば、中学生のころは朝昼夜のご飯を食べるようにいつもBOØWYを聴いていた。だから、もしも面と向かって「BOØWY好き?」と尋ねられても即答するのが難しい。好きとか嫌いとかで捉えたことがないから。その人の好きな音楽には、その人の住んでいた時代の空気や家のにおい、街のかおりがセットになっているものだ。だから、音楽とは非常にパーソナルなものであるし、その人の好きな音楽を聴いてもその人を理解したことにはならない。あくまで音楽はその人の入口であり、音楽を共有することは、その人の物語を共感することだ。