『クライング・ゲーム』『モナリザ』

この数日間、性(さが)というものについて考えている。
ひとが大事な局面に直面した際に出てくる判断や行動のよりどころとなっているもの、
あるいは時として通常の言動との矛盾や乖離が大きく、人を悩ますものについて。

この概念を意識したのは、25年前、映画『クライング・ゲーム』(1992)より。

【解説】 アイルランド、川辺りの移動遊園地。そこに出会ったばかりの男女がいた。イギリス軍黒人兵士ジョディと、ブロンドの女ジュード。遊園地を出ると女は男を誘い、2人は抱き合ってキスを交わす。と、その時、男の頭上で拳銃の撃鉄を上げる音がした。慌てて見上げるジョディ。するとそこには、銃口を向けた男が立っている。驚く間もなく彼は、数人の男に押さえつけられると顔に袋を被せられ、いずこかへ連れ去られた……。人質となった英軍兵士とIRA闘士との束の間の友情。英軍兵士の遺言に従ってロンドンで出会った謎の美女。危険で甘美なラブ・サスペンスとしての側面と、男の友情や人間としての在り方を描いた、ニール・ジョーダン監督による秀作。映画作家であり、また小説家でもあるジョーダン監督らしく、文学的でありながら小粋で洗練された会話、そして的確な演出、多彩なストーリー展開と、卓越した手腕がいかんなく発揮され、アーティスティックでありながら極上のエンタテインメントに仕上げられている。ボーイ・ジョージの歌うこの映画のテーマ曲と、才優フォレスト・ウィテカーの魅力溢れる秀逸の演技が印象的。(allcinemaより)


映画の「起」の部分、IRAに誘拐された英軍兵士のF.ウィテカーが、IRAの見張り役のS.レイに「サソリとカエルの話」を語る。


ある時、サソリが川を渡ろうとして、カエルに背中に乗せて運んでくれるよう頼んだ。
カエルは断った。“だめだ。だって君は僕を毒針で刺すだろう?”
サソリは言った。“そんなことはない。だってそんな事をしたら、僕まで溺れてしまうから”

カエルは納得して、サソリを背中に乗せて川を渡り始めた。

しかし川の真ん中で、カエルは背中に痛みを感じ、サソリに刺されたことに気付いた。
カエルは叫んだ。“なんで刺したんだ?” “溺れると判っていながら”
サソリは答えた。“止められなかったんだ。それが僕の性だから(“It's my nature”)


映画においてこの言葉はその直後のF.ウィテカーとS.レイの関係性に大きな影響を与え、ウィテカー死去後の展開においてはウィテカーの恋人J.デヴィットソンとS.レイの互いへの関わりを示す言葉となっていく。



この映画の公開時にリバイバル上映された『モナリザ』(1986)にも、この“性”というエッセンスが大きく関わっていた。

【解説】 高級コールガールの運転手になった刑務所帰りの男ジョージ。彼はシモーヌというコールガールから、行方の分からなくなった妹分の捜索を依頼される。調査をするうち、ジョージは次第にシモーヌに惹かれていくが……。夜のロンドンを舞台にしたミステリアスなアクション。タイトルは、ナット・キング・コールの同名ヒット曲から採られた。(allcinemaより)

ニール・ジョーダン監督が両作品を通して語るのは、道ならぬ恋に堕ちてしまった主人公の苦悩である。
惚れてしまった相手の正体に気づいてしまってもなお、一度傾いた心はもう制御はできない。
相手に翻弄されながらも、そのために自分にふりかかる苦難を越えながらも、自らの心を相手に捧げようとする。
それが自分の性だから、あるいはその性を受けいることが運命なのだから、と。
それがただの哀しい自己満足であろうと。


*******************


「過去と他人は変えられない。しかし未来と自分は変えられる」
自己啓発のキーワードとして、むかしから用いられる言葉だ。


自分を変えるとは、まったくの新しい自分になるということではない。
自分を縛る殻の中から、もともとの自分を発見し、抜け出すことだ。


人はみな、外面と内面を持ち合わせている。
あるいは、「なりたい自分」と「もともとの自分」を。
そしてその両面が一致していることはそう多くない。
言動不一致のジレンマにひとが苦しむのはそのためだ。


「今まで悩んだけれど、結局これが自分なんだ」
「自分にはこういうやり方しかできない(生に合わない)」


それを悟り、自覚し、まわりに理解してもらうことでしか、きっと苦しみは解けない。


川に沈んでいったカエルとサソリにとっては不幸なことだ。

カエルに対して道連れを求める権利はサソリにはない。

しかし、サソリを背中に乗せた時点で、カエルはサソリの性(さが)を受け入れる覚悟が実はあったのではないか。

そんな哀しいハッピーエンドをつい考えてしまう。

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『シング・ストリート 未来へのうた』

■人生に迷う男と女が、音楽をきっかけに出会い、レコーディングを行う中で心を通じ合わせていく─ という、『once ダブリンの街角で('07)』『はじまりのうた('14)』と同一のシチュエーションのジョン・カーニー監督の新作。
ただし今作の主人公はティーンエイジャー。どストレートな青春映画であり、メインターゲットは80年代のMTVに胸ときめかせたover40世代。知ってから公開が待ち遠しかった一本。

■舞台は1985年のダブリン。両親の不仲や閉塞的な学校生活の中で悩むコナー。ある日出会ったモデル志望のイカした年上の女性ラフィーナと近づきたいばかりについた嘘が「僕らのバンドのPVに出ない?」。
しかし彼女のOKが出てしまったもんだから、コナーは慌ててバンドを結成せざるを得なくなる。
そしてたまたまコナーには作詞とボーカルの才能が、メンバーのエイモンには曲づくりの才能があったため、バンドのPV話は「嘘から出た誠」となり、コナーとラフィーナは次第に接近していく。
そしてラフィーナはロンドンに渡りモデルとなる夢を持っていた。大人に向かっていこうとするラフィーナに対してまだ青いコナーは、戸惑いと焦りを抱えながらバンド活動と恋心を転がしていく。

■[80年代][ダブリン][ロックバンド]といえばアラン・パーカーザ・コミットメンツ('91)』を連想するところもある。
しかし同作がロックバンドの誕生から解散までを泥臭く描いたバンドそのものを主人公とした映画であるのに対して、この作品の主人公はあくまでコナーだ。
だから、急ごしらえでちんちくりんなルックスのバンドのくせに最初から演奏が妙にまとまりっていたり曲のクオリティが高すぎるたりするのはご都合主義と言うよりは愛着を込めて「バンド・マジック」と呼びたい。
監督のジョン・カーニーが描きたかったのはバンドの成長ではなくて、バンド・マジックを力にしたコナー自身の青い心の成長と旅立ち、だ。
何より、この監督は愚直なほどに“音楽のちから”を信じ、それを描き続けている。ならばこちらも監督を信頼して、物語に乗っていけばいい。
コロコロとスタイルを変えるバンドのスタンスが無節操/無思想でも、そのリズムとメロディに身体と心を揺らせばいい。そんな映画だ。

■1973年生まれの自分にとっては、今作に登場する曲たちは、自分が主体で聴いていたというよりは後追いで知った曲だったりコナーのように兄貴が聴いていた曲が殆どだ。
しかしそれでも、この時代のPVを見ると泣きたくなるくらいキラキラした気持ちになってしまう。
それは多分、外の世界もまだ知らないくせにただ漠然と自由な生き方に憧れていた頃の自分の青さが今だからこそ尊く感じられるからなのかもしれない。
そんなことを思う当時のPV の最たるものが↓これ。バンドものではないけれど。

■以下、ややネタバレ含む個人的にウケた小ネタ。

・物語のキーとなるデュラン・デュランの『リオ』のリリース年は82年なので時代設定とマッチしないのだけど、この曲(PV)が使われるのはヨットが出てくるから…かな?

・この時代のPVの金字塔といえばa-haの『テイク・オン・ミー('84)』だけど、使用許可が降りなかったのか、劇中では音源も流れない。コナーとラフィーナとの出会いのシーンでコナーが恥ずかしげに口ずさむ以外は、ピアノアレンジされたインストが劇中で使われるのみ。

・何かとコナーを目の敵にするいじめっ子の彼(名前忘れた)は、学校でもひとり、スクールジャケットではなくMA-1を着用。映画『トップガン('86)』が懐かしい。

・コナーの「愛車」であり、屋外でのエイモンとの曲つくり中に盗まれかける自転車はドロップハンドル。当時は俺の住む田舎でも垂涎の的だったけど、今では競輪選手以外に乗っている人を見たことがない。

・エイモンの自宅の離れでバンド名が正式に決まった直後のカットは「バンドの歴史的シーン」を強調するようなスローモーションになるのだけど、メンバーの足元には「?」という表情のウサギが。

ホール&オーツの『マンイーター('82)』。彼らはバンドではないのだけど、好きな曲だしいいシーンなので許す。

・そのマンイーターザ・ジャムの『悪意という名の町('82)』を元ネタにした、モータウンビートのバンドのオリジナル曲『ドライブ・イット・ライク・ユー』のPV撮影でコナーの心中で彼の願望だけが哀しく膨らんでいく。50'sをモチーフにしたファッションとダンスの楽しさがその哀しさを強調して一番泣いたシーン。

・D.Bowieを意識したようなグラマラスなメイクとヘアメッシュが校長の逆鱗に触れてしまったコナーがその夜に兄から啓示を受けたアルバムがザ・キュアーの『ザ・ヘッド・オン・ザ・ドア('85)』。翌日にはコナーのメイクと髪は既にゴス風に。直後のバンドのPV撮影でもキーボードの黒人メンバーは顔を白く塗ってわけのわかんない風貌になっていたのが笑った。

『オデッセイ』

【解説】
 科学的考証を駆使したリアリティあふれるサバイバル描写と常にユーモアを忘れない主人公のポジティブなキャラクターや、熱く感動的なストーリー展開が日本でも話題を呼んだ傑作ハードSF『火星の人』をリドリー・スコット監督、マット・デイモン主演で映画化。火星ミッション中に不運が重なり、死んだと思われたままたった一人で火星に取り残されてしまった主人公が、科学の知識と不撓不屈の根性、底抜けのユーモアを武器に、その絶体絶命の状況からの地球帰還を目指して繰り広げる過酷なサバイバルの行方を描く。
 人類3度目となる火星の有人探査計画“アレス3”は、いきなり猛烈な砂嵐に見舞われ、ミッション開始早々に中止を余儀なくされる。さらに、クルーの一人で植物学者の宇宙飛行士マーク・ワトニーが、撤収作業中に折れたアンテナの直撃を受けて吹き飛ばされ行方不明に。事故の状況から生存は絶望視される中、リーダーのメリッサ・ルイスは他のクルーを守るため、ワトニーの捜索を断念して急ぎ火星から脱出する。ミッションの行方を見守っていた地球でもNASAのサンダース長官が、ワトニーの悲しい死を全世界に発表する――。ところが、ワトニーは奇跡的に命を取り留めていた。しかし、通信手段は断たれた上、次のミッション“アレス4”が火星にやってくるのは4年後。残っている食料はどんなに切り詰めても絶望的に足りない。そんな状況にもかかわらず、決して希望を失うことなく、目の前の問題を一つひとつクリアしていくワトニーだったが…。 (all cinema より)


■不測の事態から火星にひとり取り残された宇宙飛行士の決死のサバイバルと、彼を救出するための成功率の低いミッションに挑む地球の人々(NASA、彼を置き去りにしてしまった宇宙船クルー)のドラマを巨匠リドリー・スコットが監督。
…と聞くと重厚でシリアスな映画しか思い浮かばないのに、2015年のゴールデン・グローブ賞の「ミュージカル/コメディ部門」の作品賞を受賞した快作*1

■火星に取り残された主人公マークは、常に前向きではあるが能天気ではない。自信家ではあるが夢想家ではない。
不安に押し潰されそうな深刻な状況下で知識と論理性をフル活用し、トライ&エラーを繰り返しながら生存に必要な条件をひとつずつクリアしていく。
彼の生存にやがて気付いた地球側も、「国家の面子が〜」「予算が〜」「実行のための時間が〜」等々の制約条件を打ち壊しながら、彼の救出実現に少しずつ近づいていく。
それらの登場人物の表情には「必ず成功する(失敗しても、それは過程)」という決意に基づく明るさが溢れている。真剣であるが深刻にはならない。そのスタンスがいつしか笑いを生み、映画を観ているこっちも終始頬が緩んでいた。

※酷使されたまーちゃん※


■その明るさ、楽しさは、登場人物の真剣さだけの賜物ではない。「船長が火星基地に残したプレイリスト」をマークが再生する、という使われ方で全編を彩るディスコミュージックがいちいちツボで、正式な劇伴よりもこれらの曲のほうがはるかにインパクトが高い*2

「こういう地獄みたいな状況で生き残る話って、みんなもう極限状態でものすごいサスペンスじゃないですか。ところがこの映画、ずーっとこういう曲が流れているんで、ずーっとノリノリでミュージカルみたいなんですよ。これね、監督はリドリー・スコットというもう巨匠ですね。で、この人は『エイリアン』。あの怖い怖い『エイリアン』ですね。あと、『ブレードランナー』ね。そういうすごい重々しいですね、傑作の数々を撮ってきたリドリー・スコットですけど。今回、ノリノリですよ。」


町山智浩 映画『オデッセイ』を語る


■しかし、映画を観るうちにある疑問が頭をよぎった。
「はるか彼方にいるひとりの生命を救うための国家プロジェクトが動いていく間にも、地球上では何の助けも受けられすになくなる生命も数多く存在するはず。」
そういった足元の問題には映画は全く触れることなく、世界中が地球から遥か遠くの「火星の人」に注目し続ける。
恐らくはそれこそがこの映画のメッセージなのだ。会ったこともない遥か遠くの人を気遣うことができるのなら、身近で苦しむ人を助けることはより簡単にできるはずだ、と。
そんなことを考えたころスクリーン上ではD.Bowieの『Starman(1972)』をバックに、それぞれの立場を超えて様々な立場の人間が心をひとつにしていく描写が。
「スターマン(地球に還れぬ男)が天空で(助けを)待っている」という歌詞とマッチして涙が自然に溢れた。


■通常の映画であれば、主人公や主要な登場人物が精神的な成長を行うことが映画の脚本上のセオリーである。なぜなら、観客は登場人物の成長に対して感情移入することで、映画を自分のものとしたいからだ。
しかし、この映画では誰も成長しない。登場人物は皆、NASAの研究者だったり宇宙飛行士だったり、今さら成長の余地がないプロフェッショナル揃いだ。
映画の冒頭でマークを置き去りにしてしまう船長のルイス。マークの生存を知った彼女は良心の呵責を負いながらマークの救出ミッションに挑む。
冒頭でマークを置き去りにしたきっかけも、クライマックスでマークを救出するためにとった判断も、どちらも船長としての「乗員の生命を何より優先する」という徹頭徹尾変わらないポリシーに基づくものであり、判断に伴う結果のみが真逆になっているのが面白い。
彼女もまた、成長の余地はないプロフェッショナルのひとりだ。「判断から得られる結果は必ずしも望まれるものにはならない;だからこそ判断することを恐れてはいけない」というリーダーとしての哲学を持っている。
巷の映画評では科学的側面の面白さがクローズアップされ論じられる作品だけど、上記のような、船長やNASAのリーダー達の判断描写には、組織論/リーダーシップの事例集的な面白さもあった。


■…以上、言いたいことは、「船長の音楽センスは嫌いじゃないよ」ということ。

「リッチ・パーネル・マヌーバを実行したが最後、ヘルメス号が地球帰還できるまで500日以上が延びます。もし補給に失敗すると、地球帰還までクルー5名が生きていけるだけの食糧が無いのです。ではそのもしもの場合はどうするか、クルーは決めていました。補給受け取りに失敗したら、ヨハンセン以外の4名は速やかに服毒自殺。残りの食糧全てをヨハンセンに残します。ヨハンセンが選ばれたのは、一番小柄で消費エネルギーが少ないから。それでも食糧は地球帰還までもたない・・・だから4名の遺体も食糧とする、という厳しい計画でした。」


映画『オデッセイ』 THE MARTIAN ネタバレでお節介な解説

*1:演出の明快さや音楽の多用について、監督は故弟トニーを意識しているのでは?という感想も巷にはあった。自分は画面に時間経過のスーパーを挿入する演出に少しその意識を感じた。なお、ゴールデン・グローブ賞のコメントで監督は「トニーがここにいてくれれば」と言ったそうだ…じんとくる。

*2:劇場予告編ではそれらの音楽は全く使われておらず、あくまでシリアスな作品としてPRされている。そのギャップがまた本編を楽しめた要因かもしれない。

『はじまりのうた』

■映画の原題は“begin again”、「また始めよう」あるいは「何度でもやりなおそう」。

■人生に迷う男と女が、音楽をきっかけに出会い、レコーディングを行う中で心を通じ合わせていく?という設定は、ジョン・カーニー監督の前作『once(2007)』と全く同じだけど、前作よりも明るく賑やかタッチで“音楽のちから”を描く一品。

■失恋で失意の底にいるシンガーソングライター(キーラ・ナイトレイ)と、かつてはヒットを飛ばしたものの時代の流れに迎合できず、会社や家族とも決裂した音楽プロデューサー(マーク・ラファロ)の出会い。
この二人の出会いの描き方がまず上手い。
映画の冒頭、失意のナイトレイが友人に無理やりライブバーのステージに上げられ、乗り気でないままギター一本で弾き語りをする。
客の反応も疎らな中、偶然客席にいたラファロだけが、彼女の唄う姿に対して表情を輝かせている。
ここで映画の時系列は逆順となり、そこに至るまでのラファロの事情にシフトする。
様々なトラブルや軋轢が積み重なり追い込まれたラファロ。
彼が迷い込んだライブバーで耳に入ったナイトレイの唄。
時代遅れのスタイルの唄がその時の彼の耳には鮮やかに響き、誰も演奏していないスデージ上の楽器は音を奏で始め、彼の耳にはアレンジの重なりがはっきりと聴こえてくる。
マイナス同士の心が乗じ合うことでプラスの何かが生まれ、そこから始まる鮮やかなドラマ。

…正直、この場面に至るまではラファロに対して感情移入もしにくく少々退屈だったのが、ナイトレイの凛とした眼差しと彼女の音楽により物語にぐいぐいと引っ張っられていく。


■この映画は、“音楽を語る手段とした映画”であると同時に、“音楽そのものについて語る映画”でもある。
音楽がただの風景に色彩を与えてくれること。
音楽を共有する楽しみ*1が、時代とともに個人の楽しみに変化していったこと。
互いの音を重ねていくことで人の心が重なっていくこと。
そして音楽はいつか作り手のもとを離れていくこと。
そういった喜びや寂しさを、説明くさい言葉よりも音楽そのものの存在で伝えてくる映画。
深い哲学があるわけではないが、悪い人間も不幸になる人間も登場しない。
とにかく音楽が流れているあいだ中、こちらの表情と涙腺は緩みっばなしだった。

*1:音楽とは非常にパーソナルなものだ。例えば、年代が違っていても映画の好みは共通化/共有化しやすいのに、音楽の好みにおいて年代の差は大きい。その理由はなんだろうか? 思うに、音楽そのものが、その個人の生活に非常に密着しているからだ。映画を観る経験とは、映画館に足を踏み入れることでいちど日常と切り離され、年代の違う人間であっても「ただの観客」として共通体験を持つことができるが、音楽はあくまで日常の中にある。例えば自分の例/世代であれば、中学生のころは朝昼夜のご飯を食べるようにいつもBOØWYを聴いていた。だから、もしも面と向かって「BOØWY好き?」と尋ねられても即答するのが難しい。好きとか嫌いとかで捉えたことがないから。その人の好きな音楽には、その人の住んでいた時代の空気や家のにおい、街のかおりがセットになっているものだ。だから、音楽とは非常にパーソナルなものであるし、その人の好きな音楽を聴いてもその人を理解したことにはならない。あくまで音楽はその人の入口であり、音楽を共有することは、その人の物語を共感することだ。

『フランシス・ハ』

【解説】
 監督作「イカとクジラ」や共同脚本を手がけた「ライフ・アクアティック」「ファンタスティック Mr.FOX」でのウェス・アンダーソンとのコラボなどで知られる俊英ノア・バームバック監督が、前作「ベン・スティラー 人生は最悪だ!」でヒロインに起用したグレタ・ガーウィグとのコラボで贈る青春コメディ。ニューヨークを舞台に、プロのモダンダンサーを夢見ながらもままならない日々を送る大人になりきれない27歳のヒロイン、フランシスが周囲の人々と織り成すほろ苦くもユーモラスな等身大の人間模様を、モノクロ映像で軽やかに綴る。
 ニューヨーク・ブルックリンで見習いモダンダンサーをする27歳のフランシス。親友のソフィーとルームシェアをして、それなりに楽しく毎日を送っていた。しかし、まだまだ若いつもりのフランシスに対し、周りはどんどん変わっていく。やがてダンサーとしての行き詰まりを痛感し、またいつしかソフィーとの同居も解消となり、ニューヨーク中を転々とするハメになるフランシスだったが…。(allcinema より)


■それが例えば月に1本であっても、映画を観るためにいろいろと時間をやりくりするような状況にもなると、映画館で見る予告編ひとつにも必要以上に喰いついてしまう。


「全米で異例の大ヒット!モダンダンサーを夢見るフランシスの、ちょっとビターな等身大ニューヨークライフ!」
「ハンパな わたしで 生きていく。」

モノクロ画面でのオシャレ女子のやりとりをヌーヴェルヴァーグ*1のようなカット/テンポで見せた上に主題歌はD.ボウイの『モダン・ラヴ('83)*2』。
まったく現代の時勢にも今の自分にもマッチするような要素なし(そもそも女子じゃないし)。
しかし監督は『イカとクジラ('05)*3』のノア・バームバックだからそんなに単純な物語ではない予感。

結論として、“やけに気になる、観たい!”という気持ちになり、公開2日目の日曜、息子をデイサービスに送って急いで映画館*4に駆け込んだ。

■映画は、上記のキャッチコピーそのままの、【主人公の半径2メートル映画】。
映画の視点は主人公フランシスの主観/周囲から外れることなく、トリッキーな時系列ずらしも映像マジックもなく、会話と編集のリズムが90分*5を小気味よく刻んでいく。

■フランシスは、大学は出ているが定職にはついていない、モダンダンスカンパニーの研究生。
長い手足、革ジャンが似合ういかつい肩幅、美人ではあるが色気はない。*6
大雑把な性格で、裏表はないが、“何者にもなりきれていない自分”と“27歳”という年齢とのせめぎ合いによる焦りのため、周囲と少しズレてしまう。
それでも、不器用ながらも人嫌いではなく、人とかかわることを求め続ける。
故郷のサクラメントに帰れば自分を受け入れてくれる両親はいる。
ただ、どうすれば自分が求める“何者か”に近づけるのか、その探し方もわからず、常に歩き回り、時には走り、止まることなく動きつづける。

*7

■[芸術家・業界人の卵とのルームシェア][ダンスカンパニーのクリスマス公演でのキャスティング][パリでの旧友との再会][立食パーティでの要人のお世話係への抜擢]といった、普通の映画なら主人公のチャンスのために活かされるイベントにも、フランシスはことごとくチャンスを外し続ける。
ただ、その外し方が玩具の「だるま落とし」のように、ストン、ストンと一段ずつ綺麗に落ちていくのがこの映画(脚本)の味噌。
また、フランシス自身の描かれ方も、周囲とズレるキャラクターではあるが、好感が失われないように大事に描いている。例えば、居候先のカンパニーの知り合いでの夕食会で周囲が富裕層/インテリ層ばかりになり、たちまち彼女は話題に窮してしまう。酒に酔った勢いもあり、彼女が周囲に吐露するのは自身の恋愛観。「私が出会いに求めるのは本当に特別な二人だけの空気、だから私は恋ができないのかも」というあまりに唐突で幼い吐露が、彼女をチャーミングに思わせる。
「雨降って地固まる」ということわざのように、フランシスが落ちていくステップにも小さな意味とつながりがあり、最終的に彼女を待ち受ける出来事には、彼女にちいさな拍手を送りたくなる。

■ラストシーン、さまざまなできごとの末に一皮むけたフランシスは、独り立ちを記念して、それまではできなかったある行動を行う。
その行動の顛末(だるま落としの最後のパーツが落ちる瞬間)に、絶妙のタイミングでかかる音楽。
映画のタイトルの意味が判明する鮮やか幕切れは、『モダン・ラヴ』の疾走感とともに至福感を心にもたらしてくれる。

「ガーウィグは、観客に安っぽい共感を求めない。他の役者を押しのけて自分だけを注目させようともしない。むしろ彼女は、余計な感情表現や小手先の技を避け、ひたすらキャメラの前に「存在」しつづけようとする。すると、観客も彼女を忘れられなくなる。変な女、と思いつつ、その可愛らしさや明るさやたくましさに惹かれてしまう。」

芝山幹郎コラム:「フランシス・ハ」とふらふら人生の幸福

*1:全編モノクロで描かれていることについては、監督がインタビューにてヌーヴェルヴァーグへのオマージュであることを示唆している。物語を転がすための最低限のアイテムとしてスマホMacは登場するが、映像をモノクロにすることにより具体的な年代の特定性が失われ、普遍性を帯びた物語となったことが結果的に良かったのではないか、と僕は思う。

*2:監督のノア・バームバックは69年生まれ。フランシス役のグレタ・ガーウィグは1983年(曲と同じ年)生まれ。インタビューによると、監督が初めて買ったレコードの曲が『モダン・ラヴ』だそうだ。

*3:イカとクジラ』なんてどれだけ見た人がいるのか…かくいう自分もDVDで観たけど細かいところは覚えていない。それでも「ううむ」と前向きに唸るような作品だったことは感触として覚えている。

*4:八丁堀の新生サロンシネマに始めて足を運んだ。シート別に記されている映画の台詞は殆ど何の映画かは判らないけれど、ロビーのドーム天井の宮崎祐治さんのイラストは何の映画か9割がたは判った。

*5:この尺の短さも、観に行こうと思った理由のひとつ。この歳になると「しっこ問題」とどう対峙するかが切実な問題である。

*6:自分はこういうタイプの女性のほうが好きだけどなぁ。自分も“非モテ”だからなのか。

*7:「これってカラックスの『汚れた血('86)』だよね」とうちの奥様が映画後に指摘してきたが、全然覚えていない。『ポンヌフの恋人('91)』の映画公開に併せたリバイバルで『汚れた血』は観たけれど、映画の印象自体、残っていない。同時上映だった『ボーイ・ミーツ・ガール('83)』のほうは印象に残っているけれど。http://youtu.be/7zSWE3G-fc0

『50/50(フィフティ・フィフテイ)』

『海洋天堂』を観に行った際にかかっていた予告編で”観たいな”と思っていたが、観てきた家内、そしてマイミクのせんきちさんが”よかった”と言うので観に行った。息子ちゃんを土曜日のデイサービスに送ってまた迎えにいく間の時間がちょうど上映に合っていたのも都合よかった。



主人公のアダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)はシアトルの公営ラジオ局で制作を担当する27歳。恋人である現代芸術家のレイチェル(プライス・ダラス・ハワード)とは、アダムが男性としては几帳面すぎる性格のせいか、最近あまりうまくいっていない。アダムの同僚のカイル(セス・ローゲン)は几帳面で淡泊なアダムとは正反対にややガサツで女好きだが、アダムとは高校の頃からの親友であり互いのことはよく知っている。 


体の変調に気付き病院で診断を受けたアダムは医者より脊髄部に浸食した重度のガンであることを宣告される。ウェブで調べた情報によると5年以内の生存確率は50%。打ち明けたカイルには「悪くない数字だ。カジノなら勝てる」と楽観視され、レイチェルには自分から別れることも勧めるが「大丈夫、私が面倒を見るわ」と受け入れられる。物語のプロローグ的な部分であるここまでの描写はスピーディーだ。


映画はこのあたりから徐々におかしく(可笑しく)なる。アダムは両親を自宅に呼び、レイチェルと共に自分がガンであることを告白する。ヒステリー気味の母親ダイアン(アンジェリカ・ヒューストン)は「いつ判ったの?2日前?なんで2日間も黙ってたの!?」「緑茶を入れてあげる。緑茶はガンの発症率を15%低減するのよ」と動転し、アルツハイマーを患う父親は目の前で起こっている事象を理解できない。レイチェルは「犬は人を癒すのよ」と保健所から痩せこけた老ハウンド犬を引き取りアダムに押しつけるように飼わせる。カイルはアダムがガンであることをネタに女性の同情を惹くナンパを繰り返す。病院で紹介されたセラピストのキャサリンアナ・ケンドリック)は自分よりも年下の研修生で、アダムへの接し方は不器用なことこの上なく、なにかとアダムを苛立たせ、セラピーどころではない。


周囲の人間の言動がどれも自分の感情とかみ合わず、独り静かに当惑するアダム。そのシチュエーションは、突然自分が異文化に放り込まれた状況を描く”カルチャーギャップ・コメディ”と同じで、その微妙な”かみ合わなさ具合”が可笑しい。なにしろガンを患うアダム当人も、自分の状態について正確に把握できていない。初めての病院での抗ガン剤治療で出会う先輩患者から”ハッパ入りのマカロン”を勧められてハイになった状態でガン病棟を徘徊し、ストレッチャー上の患者を見てわけもなく微笑んだりする。


当初は面倒を見ていたレイチェルの態度も次第にアダムとの距離ができはじめる。アダムをネタにナンパした書店員をデートに誘ったカイルは、レイチェルの芸術個展の会場でレイチェルの浮気現場を目撃する。その夜アダムとレイチェルの前で”証拠写真”を防露し、レイチェルを追い出すカイル。このあたりから、アダムの混乱を助長するだけの周囲の言動のおかしさは”可笑しい”ではなく”不可解”の色が濃くなりはじる。しかし、ガツガツするカイルと対照的に女性に対しても奥手なアダムは声高に自分の感情を語ることはない。静かに進行するガンによる疲労感/顔色の変化や、ひとりベットに横になる彼の無言の表情にアダムの孤独感が浮彫になっていく。


レイチェルと別れて病院への送り迎えの足(車)が無くなり病院のバス停に座っていたアダムをキャサリンが見かけ、車で家まで送ることを提案したことから二人の関係(そして映画のトーン)は変わっていく。つきあっていた彼と別れたことを運転しながらひとりごちるレイチェル。「駄目、患者にこれ以上のことは言えない」と言いながら「彼に新しい彼女ができていないかどうか、フェイスブックでチェックしてばかり」と愚痴るキャサリン。そんなキャサリンの車内はゴミで散乱し、それに我慢しきれなくなったアダムは車を道端に停めさせ、ゴミ箱に捨てに走る。しかしそんなアダムの様子には幾分生気が戻っている。
ガンを宣告されてから「ガン患者とそれを気遣う周囲」という関係でのひとつでしかなかったキャサリンとの関係が「少し不器用だけど恋したい男と女」という胸が少しきゅんとする関係に変化するそのパートから、アダムの感情、周囲の関係が少しづつ温かかなほうへ動き始める。
そして彼のガンの進行も。抗ガン剤治療を共に行い、私生活でもやりとりを行っていた老患者の突然の死。そしてアダム自身も自分の体に抗ガン剤の成果はなく、危険度の高い手術を行う以外に選択肢はないことを知らされる。


自分の生死の問題を心の中に抱えて、手術の前日に激しく感情を高ぶらせ嗚咽するアダム。しかしそれは、自分に対するカイルや両親の本心、キャサリンへの自分への正直な気持ちを確認する大事なきっかけでもあった。
手術へ。アダムと皆がそれぞれの立場で、手術の経過を待つ。そして─。


映画の前半部分は上に書いたギャップ・コメディとしてずっとくすくすと笑っていた。しかし後半、キャサリンの車内でのシチュエーションで、二人の気持ちの距離がぎこちなく近づいていく描写の暖かさにボロボロと涙が出て以降、ずっとぐずぐずと泣いていた。
ガンについての知識も経験もない自分にはリアリティは判らないけれど、これは「人間賛歌」の映画だ。『50/50(フィフティ・フィフティ)』というタイトルは生存確率の意味とともに、この映画の前半と後半で折り返しで描かれていた”人間関係の機微の表面と内面”、そして”最後のときに笑うのか、泣くのか”という生き方の意味をうまく表したいいタイトルだと思う。


…何よりも、キャサリン役のアナ・ケンドリックが、リスみたいで可愛かったです。

『クレイマー、クレイマー』

【解説】(allcinema online より)
 8年目にして妻の自立心から破局を迎えた結婚生活。残された夫は幼い息子の面倒を見るのだが……。離婚と養育権という、現代アメリカが避けて通れない社会問題をハートウォームな人情劇を通して描いた80年の代表作品。ホフマン、ストリープ(助演女優賞)の他、アカデミー作品・監督・脚色賞を受賞。“フレンチ・トースト”と共に、絶対的母性を感じさせるトップ・シーンのストリープの横顔の美しさが印象深い。
 テッドとジョアンナの結婚生活は8年目を迎え、一人息子ビリーも7歳となったクレイマー家。ジョアンナは、かねてより家庭を顧みず仕事優先の生活を送るテッドに不満を募らせていた。そしてある日、ついに彼女は自立を決断し、家を出て行ってしまう。一転して妻に任せっきりとなっていた家事と仕事の両立をせざるを得なくなったテッド。しかし始めは覚束ないものの、次第に2人の生活にも慣れ、これまで以上に父と子の絆を強めていく。だがそんな中、ジョアンナが突然養育権を訴えてくる。失業したことも重なってテッドに不利な形で裁判が進み、はたして養育権はジョアンナ側に。こうして、テッドとビリーは父子最後の朝食を迎えるのだが…。



「午前十時の映画祭 いつみてもすごい50本」の中の1本。
学生の頃にレンタルビデオで見た記憶があるが、襟を正してスクリーンにて再見。


現在の所有元であるソニー・ピクチャーズの最新ロゴが流れた後、朝日をモチーフとした当時のコロムビア・ピクチャーズのマークが映し出される。
ちなみに、この映画の公開時の1979年(日本では1980年)、映画の中のビリーと僕はほぼ同じ年齢だった。


映画の冒頭はジョアンナ(メリル・ストリープ)の苦悩する表情の大写し。
(後半の息苦しい裁判のシーンで、彼女を悪人にしないための印象的なカットでもある。)

彼女は息子の寝顔を見つめたあと、夫と愛する息子を置いてろくに荷物も持たず夜更けに家を出て行く。
その姿は感情的で行き当たりばったりではあるがその分、良き母・良き妻であろうとした彼女がいかに精神的に追い詰められていたがを示している。


その翌朝。普段のようにビリー(ジャスティン・ヘンリー)を学校に行かせ、自分も出社しなければならないテッド(ダスティン・ホフマン)は、妻の不在に平静を装おうとしつつも明らかに動揺している。

唐突にそこから始まる父子ふたりだけの生活。前途有望のやり手のビジネスマンであったテッドにとっての青天の霹靂は、当然彼の仕事ぶりに、そしてビリーの精神状態にも影響する。ふたりは苛立ち、ぶつかりあいながら、すべてが完璧にできないことを受け入れつつ、やがて父子としての絆を深めていく。

ここまでの映画の前半部分は断片的なスケッチを重ねることで父子の日々を描いていくが、その中でのふたりの食事のシーンが印象的に度々登場する。



二人きりになった最初の朝のフレンチトースト(キッチンは大惨事)。
家事を諦めたテッドが準備するTVディナー。
朝のテーブルで父は新聞、息子はコミックを読みながら無言で並んで食べるドーナツ。

何を食べているかはさして重要ではなく、とにかくふたりはテーブルを共にし、互いの気持ちをぶつけ、そして向かい合わせていく。 
その風景は、恐らくジョアンナが家を出て行くまではそこになかった風景だ。


映画の後半。ふたりだけの生活にも慣れてきたころ、数ヶ月音沙汰のなかったジョアンナがテッドの前に現れ、ビリーの親権を主張する。
双方が弁護士を立てての裁判が始まり、映画のタイトルである”Mr.Kramer vs Mrs.Kramer”の展開となる。

自分がビリーの親としてふさわしいことを証明するために、言葉を選びながらも精神的なダメージを相手に確実に与えていく親権裁判。
そのやり方は、かつてテッドが身を置いた、生き馬の目を抜くビジネスの世界と同様であり、息子との絆を守るためとはいえテッドはジョアンナに対して非情になり切れない。

それはジョアンナも同じだ。ただ息子愛しさのために始めた争いが、かつての夫を、そして夫が苦心しながら築いた息子との絆を壊していく様子を目の当たりにし、彼女自身も苦悩する。


今回この映画を再見するまでまったく記憶になかったのだけど、テッドとジョアンナの共通の友人として登場するジェーン・アレクサンダーがいい。

亭主と離婚し、ビリーと同い年の娘を育てるシングルマザーの彼女は、家を出るまでのジョアンナの相談相手であり、そしてジョアンナが家を出たあとは、片親のしんどさを共有しあう良き【戦友】としてテッドと強い共感で結ばれている。

それだけに、彼女を巻き添えにしてジョアンナとテッドが争う立場となる法廷のシーンは息苦くやるせない印象を残す。

二人の裁判は当初予測されていた通り、テッドが敗訴する。
ビリーを取り戻すために上訴も考えたテッドではあったが、ビリーにとって一番大事なこと:大人の醜い争いにこれ以上ビリーを巻き込まないことを決意し、上訴せず、ジョアンナに親権を譲り渡す決意をする。


二人が何度も訪れた公園で、テッドはビリーに別れを告げる。
父親とのふたりきりの生活の中で成長したビリーは必死にそれを受け入れようとするが、やはり耐えられるものではない。
ぼろぼろと涙を流すビリーを、テッドは強い意志で、毅然とした表情で抱きしめる。

ジョアンナがビリーを迎えに来る二人だけの最後の朝。
二人は台所で無言でフレンチトーストを作る。
最初(ジョアンナが出て行った翌朝)のシーンでは不器用だった、テッドの卵をかき混ぜる手つきもリズミカルに(映画のテーマ曲であるヴィヴァルディの「マンドリン協奏曲」の印象的なフレーズのように)、そしてコンロの横に腰掛けてアシストするビリーとの連携もきちんとできている。

しかしそれも最後だ。無言での作業のあと、二人は涙をこらえて台所で固く抱き合う。


ビリーを迎えにやってきたジョアンナ。
しかし彼女の気持ちも裁判を通じ、テッドと同じものに変わっていた。

”これ以上ビリーを苦しめたくない”。

マンションのフロントロビーに降りてきたテッドに”ビリーは連れていかない”ことを告げるジョアンナ。

ビリーと話がしたい、というジョアンナに”一人で行ってこい”と背中を押すテッド。

二人が同じエレベーターに乗ることはなく、かといって二人が断絶したのでもなく、同じ思いを共有したことを表すカットで、映画は終わる。 
エンドクレジットも映画の余韻を味わうには短い。


このエンドシーンだけでなく、全体に渡り、ロバート・ベントンの演出は淡白だ。

例えばテッドが裁判にて敗訴する決め手となる出来事として、【ビリーが40度の高熱によりその看病のためテッドが重要な商談の場面に遅刻し、その結果、テッドは職を失う】という事実が、ジョアンナ側の弁護士の口から語られる。

それを暗に匂わすヒントこそ映画前半にてあるものの、映画の中では直接の描写はない。

凡庸な監督の演出であれば直接描いたに違いないこの出来事も、ベントンは観客の想像に任せてしまっている。 



しかし、経験ある者であれば、語らなくとも伝わるのだ。

たった一人で子どもを守っていかざるを得なくなった時の苛立ちや孤独感、

かつて愛し合った相手といがみ合うことの空しさや徒労感、

子どもを守り安心させるためにはただ”愛している”というだけでは何も足りないという無力感。 


経験した者にとっては思い返すこともつらい事ではあるけれど、あらためて考えなければいけないこと。

”仕事に家庭の事情を持ち込んではいけない”
”完璧な親でないと子育てはできない” 

そんな呪縛がずっと、多くの親を、そして子どもを傷つけてきたことを僕らはもう判っている。 


仕事も家庭も大事だし、同じ人間がやる以上それらを切り離すことなどできない。

どちらも完璧でなくていい。できない部分は皆で助けあわなければいけない。

それが僕たちにはできるはずだ。 忘れてしまいがちではあるけれど。