『クレイマー、クレイマー』

【解説】(allcinema online より)
 8年目にして妻の自立心から破局を迎えた結婚生活。残された夫は幼い息子の面倒を見るのだが……。離婚と養育権という、現代アメリカが避けて通れない社会問題をハートウォームな人情劇を通して描いた80年の代表作品。ホフマン、ストリープ(助演女優賞)の他、アカデミー作品・監督・脚色賞を受賞。“フレンチ・トースト”と共に、絶対的母性を感じさせるトップ・シーンのストリープの横顔の美しさが印象深い。
 テッドとジョアンナの結婚生活は8年目を迎え、一人息子ビリーも7歳となったクレイマー家。ジョアンナは、かねてより家庭を顧みず仕事優先の生活を送るテッドに不満を募らせていた。そしてある日、ついに彼女は自立を決断し、家を出て行ってしまう。一転して妻に任せっきりとなっていた家事と仕事の両立をせざるを得なくなったテッド。しかし始めは覚束ないものの、次第に2人の生活にも慣れ、これまで以上に父と子の絆を強めていく。だがそんな中、ジョアンナが突然養育権を訴えてくる。失業したことも重なってテッドに不利な形で裁判が進み、はたして養育権はジョアンナ側に。こうして、テッドとビリーは父子最後の朝食を迎えるのだが…。



「午前十時の映画祭 いつみてもすごい50本」の中の1本。
学生の頃にレンタルビデオで見た記憶があるが、襟を正してスクリーンにて再見。


現在の所有元であるソニー・ピクチャーズの最新ロゴが流れた後、朝日をモチーフとした当時のコロムビア・ピクチャーズのマークが映し出される。
ちなみに、この映画の公開時の1979年(日本では1980年)、映画の中のビリーと僕はほぼ同じ年齢だった。


映画の冒頭はジョアンナ(メリル・ストリープ)の苦悩する表情の大写し。
(後半の息苦しい裁判のシーンで、彼女を悪人にしないための印象的なカットでもある。)

彼女は息子の寝顔を見つめたあと、夫と愛する息子を置いてろくに荷物も持たず夜更けに家を出て行く。
その姿は感情的で行き当たりばったりではあるがその分、良き母・良き妻であろうとした彼女がいかに精神的に追い詰められていたがを示している。


その翌朝。普段のようにビリー(ジャスティン・ヘンリー)を学校に行かせ、自分も出社しなければならないテッド(ダスティン・ホフマン)は、妻の不在に平静を装おうとしつつも明らかに動揺している。

唐突にそこから始まる父子ふたりだけの生活。前途有望のやり手のビジネスマンであったテッドにとっての青天の霹靂は、当然彼の仕事ぶりに、そしてビリーの精神状態にも影響する。ふたりは苛立ち、ぶつかりあいながら、すべてが完璧にできないことを受け入れつつ、やがて父子としての絆を深めていく。

ここまでの映画の前半部分は断片的なスケッチを重ねることで父子の日々を描いていくが、その中でのふたりの食事のシーンが印象的に度々登場する。



二人きりになった最初の朝のフレンチトースト(キッチンは大惨事)。
家事を諦めたテッドが準備するTVディナー。
朝のテーブルで父は新聞、息子はコミックを読みながら無言で並んで食べるドーナツ。

何を食べているかはさして重要ではなく、とにかくふたりはテーブルを共にし、互いの気持ちをぶつけ、そして向かい合わせていく。 
その風景は、恐らくジョアンナが家を出て行くまではそこになかった風景だ。


映画の後半。ふたりだけの生活にも慣れてきたころ、数ヶ月音沙汰のなかったジョアンナがテッドの前に現れ、ビリーの親権を主張する。
双方が弁護士を立てての裁判が始まり、映画のタイトルである”Mr.Kramer vs Mrs.Kramer”の展開となる。

自分がビリーの親としてふさわしいことを証明するために、言葉を選びながらも精神的なダメージを相手に確実に与えていく親権裁判。
そのやり方は、かつてテッドが身を置いた、生き馬の目を抜くビジネスの世界と同様であり、息子との絆を守るためとはいえテッドはジョアンナに対して非情になり切れない。

それはジョアンナも同じだ。ただ息子愛しさのために始めた争いが、かつての夫を、そして夫が苦心しながら築いた息子との絆を壊していく様子を目の当たりにし、彼女自身も苦悩する。


今回この映画を再見するまでまったく記憶になかったのだけど、テッドとジョアンナの共通の友人として登場するジェーン・アレクサンダーがいい。

亭主と離婚し、ビリーと同い年の娘を育てるシングルマザーの彼女は、家を出るまでのジョアンナの相談相手であり、そしてジョアンナが家を出たあとは、片親のしんどさを共有しあう良き【戦友】としてテッドと強い共感で結ばれている。

それだけに、彼女を巻き添えにしてジョアンナとテッドが争う立場となる法廷のシーンは息苦くやるせない印象を残す。

二人の裁判は当初予測されていた通り、テッドが敗訴する。
ビリーを取り戻すために上訴も考えたテッドではあったが、ビリーにとって一番大事なこと:大人の醜い争いにこれ以上ビリーを巻き込まないことを決意し、上訴せず、ジョアンナに親権を譲り渡す決意をする。


二人が何度も訪れた公園で、テッドはビリーに別れを告げる。
父親とのふたりきりの生活の中で成長したビリーは必死にそれを受け入れようとするが、やはり耐えられるものではない。
ぼろぼろと涙を流すビリーを、テッドは強い意志で、毅然とした表情で抱きしめる。

ジョアンナがビリーを迎えに来る二人だけの最後の朝。
二人は台所で無言でフレンチトーストを作る。
最初(ジョアンナが出て行った翌朝)のシーンでは不器用だった、テッドの卵をかき混ぜる手つきもリズミカルに(映画のテーマ曲であるヴィヴァルディの「マンドリン協奏曲」の印象的なフレーズのように)、そしてコンロの横に腰掛けてアシストするビリーとの連携もきちんとできている。

しかしそれも最後だ。無言での作業のあと、二人は涙をこらえて台所で固く抱き合う。


ビリーを迎えにやってきたジョアンナ。
しかし彼女の気持ちも裁判を通じ、テッドと同じものに変わっていた。

”これ以上ビリーを苦しめたくない”。

マンションのフロントロビーに降りてきたテッドに”ビリーは連れていかない”ことを告げるジョアンナ。

ビリーと話がしたい、というジョアンナに”一人で行ってこい”と背中を押すテッド。

二人が同じエレベーターに乗ることはなく、かといって二人が断絶したのでもなく、同じ思いを共有したことを表すカットで、映画は終わる。 
エンドクレジットも映画の余韻を味わうには短い。


このエンドシーンだけでなく、全体に渡り、ロバート・ベントンの演出は淡白だ。

例えばテッドが裁判にて敗訴する決め手となる出来事として、【ビリーが40度の高熱によりその看病のためテッドが重要な商談の場面に遅刻し、その結果、テッドは職を失う】という事実が、ジョアンナ側の弁護士の口から語られる。

それを暗に匂わすヒントこそ映画前半にてあるものの、映画の中では直接の描写はない。

凡庸な監督の演出であれば直接描いたに違いないこの出来事も、ベントンは観客の想像に任せてしまっている。 



しかし、経験ある者であれば、語らなくとも伝わるのだ。

たった一人で子どもを守っていかざるを得なくなった時の苛立ちや孤独感、

かつて愛し合った相手といがみ合うことの空しさや徒労感、

子どもを守り安心させるためにはただ”愛している”というだけでは何も足りないという無力感。 


経験した者にとっては思い返すこともつらい事ではあるけれど、あらためて考えなければいけないこと。

”仕事に家庭の事情を持ち込んではいけない”
”完璧な親でないと子育てはできない” 

そんな呪縛がずっと、多くの親を、そして子どもを傷つけてきたことを僕らはもう判っている。 


仕事も家庭も大事だし、同じ人間がやる以上それらを切り離すことなどできない。

どちらも完璧でなくていい。できない部分は皆で助けあわなければいけない。

それが僕たちにはできるはずだ。 忘れてしまいがちではあるけれど。